核安全保障サミットについて

ここ数日のニュースの中で興味を引かれたのは、オバマ米大統領の呼びかけで行われた"Nuclear Security Summit"に対するマスコミ各社の訳語の違いです。

"Nuclear"を「核」、"summit"を「サミット」と訳出・表記する点については合意が存在するとして、問題は"security"という単語です。素直に逐語訳すると、「核安全保障サミット」という訳が穏当な訳であるように見受けられますが、主要報道機関の訳を調べてみると、「核安全保障サミット」を含めて実に4パターンの表記があるようです。

朝日新聞 保安サミット "安全保障、安保"ではなく"保安"を使う点が趣深いと感じます。
たしかに、空港では"security check"を「保安検査」と呼んだり
しますね。ちなみに、手元にある2冊の英和大辞典(研究社、
大修館)には「保安」という訳語は見あたりませんでした。
読売新聞 安全サミット これも、あえて「安全保障」という単語を避けた点に、デスクのこ
だわりを感じます。「安全」の一語で言い切ることで、きな臭さが
一気に薄れます。表記が短いのも紙面の限られた活字媒体に
おける利点でしょうか。
毎日新聞 核安全保障サミット  
産経新聞 核安全保障サミット  
日本経済新聞 核安全保障サミット  
共同通信 核安全保障サミット 共同通信は「核安全保障サミット」を採用しています。したがっ
て、海外特派員のいないような地方新聞では、この訳語が用い
られることになると見られます。
  • いわゆる在京キー局*1
NHK セキュリティーサミット 文脈にもよりますが「セキュリティー」というカタカナ表記は、
やや技術的な場面での用例が多いような気がしますから、
少し違和感を感じます。後述するように外務省の公式な表
現が「セキュリティ・サミット」でなかったならば、別の訳が採
用されていた可能性が高いと思われます。
日本テレビ セキュリティーサミット 同上
TBS 核安全保障サミット  
フジテレビ 核安全保障サミット  
テレビ朝日 セキュリティーサミット 同じフジサンケイグループ産経新聞とは表記が異なる点
が興味深いと思います。アナウンサーが「セキュリティー」と
いう横文字を読み上げるとインパクトがあるという算段でし
ょうか。
テレビ東京 核安全保障サミット  

ここで、我が国の公式訳はどうなっているかというと、外務省のwebサイトでは「核セキュリティ・サミット」という表現が用いられています。もちろん首相官邸でも同じ表記を採用しており、テレビ局数社の「核セキュリティーサミット」という表現は外務省の表記に忠実なものであることが分かります。*2

冒頭で「核安全保障サミット」という訳がそれらしく見えると述べましたが、「核セキュリティ・サミット」という表記には鳩山総理の服装に対するのと同じとまでは言わないものの、多少の違和感を感じます。外務省が同サミットの概要について説明しているページを見ると、「ワーキング・ディナー」、「イニシアティブ」、「キャパシティー・ビルティング」「ナショナル・ステートメント」といったカタカナ英語が頻出しますから、"security"についても安易にカタカナ語を用いたものと見ることもできそうですが、こと"security"に関しては、こなれた日本語訳が存在するだけに、あえて不自然なカタカナ語が用いられている点に、外務官僚の工夫があるような気がするのです。

報道によると、今回のサミットではイラン・北朝鮮という国家に対する対応方針だけでなく、核兵器を用いたテロリズムへの対応といった実務的・技術的な話題も議題となっています。私の限られた知識と理解力で推定するに、外務省としては「安全保障」という用語を用いることで、伝統的な高レベルな話題に限定された話し合いであるというニュアンスが言外に出てしまうことを避けたかったのではないかと思われます。

私が何を言ったところで外野の勝手な憶測に過ぎませんが、日本語で説明された外国の出来事に接したとき、名詞や動詞の対応付けに注意を払うと、色々と話題をふくらませることができて楽しいと思います。


関連する話題として、「連合国」と「国際連合」という2つの日本語があります。
米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は第二次大戦中の欧米中心の同盟国を指す言葉として「連合国」という呼称を考えました。その後、この「連合国」が枢軸国に対して勝利すると、この同盟を恒久的な国際機関にしようという動きが生じ、「国際連合」が設立されます。ご存じの方も多いかと思われますが、実は、英語名称で言えば、「連合国」も「国際連合、国連」も、どちらも"the United Nations"なのです。日本語の「国際連合」という新しい名称からは、あたかも「新たに設立された中立機関」といった印象を受けがちで、敵国条項なるものがあるのも不合理な気もしますが、英語名称からすれば第二次大戦の戦勝国連合であることは自明であり、敗戦国が区別して扱われるのは当然のこととして理解できます。*3
戦後、日本政府が国連加盟を目指すに当たって、外務省なりマスコミなりが意図的に日本語訳を変更することで、国民の理解を得ようとしたのではないかと推測されます。ちなみに、戦勝国側である中華民国中華人民共和国では、戦後の国際機関の方も戦争中から引き続き「連合国」(漢字は中国語表記)と呼ばれているようです。

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(2010-04-14 10:55追記)
同様の話題を昨日の段階で記述されている方がいらっしゃいました。核安全保障サミット(Nuclear Security Summit)の訳し方は?

*1:各局のニュース用webサイトから文字表記を調べました。

*2:英単語の連続に「・」(ナカグロ)を打つかどうか、語尾を伸ばすかどうかという点で微少な差異がありますが、これは各社社内の表記基準によるものと思われます。ちなみに、共同通信社記者ハンドブックでは、「セキュリティー」という、語尾を伸ばす表記が採用されています。

*3:日本語の「連合国」に対応する語は、the United Nationsだけでなく、他にもthe allied powersやthe allied countriesがあるようです。