GENIN 2016

下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く膿を持ったトラックポイントを気にしながら、聞いているのである。

しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっきゲートの中で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、メールを読み逃すか餓死するかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、メールを読み逃すなどと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

「きっと、そうか。」

老婆の話がおわると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手をトラックポイントから離して、老婆の襟上えりがみをつかみながら、噛みつくようにこう云った。

「では、己が未読メールをそのまま削除しようと恨むまいな。己もそうしなければ、疲れてしまう体なのだ。」

下人は、すばやく、Ctrl-A + DELを押下した。それから、執拗にメールを配信してくるメーリングリストを、手早くいくつもunsubscribeした。残りのリストは、僅に五つを数えるばかりである。下人は、すっかり空になった受信トレイを満足げに眺めると、またたく間に狭いゲートを夜の底へかけ出した。

しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、ゲートの外まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒さかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。

下人の行方は、誰も知らない。